変な私〜

何故だか分からないが、突然
短大の頃、授業で太宰治をやっていた頃のことを思い出した。
授業といっても10数人で、何かひとつをテーマにレポートを書き、
それを元に話し合うというもの。

その中で、先生がいった言葉。

「言葉というのは、この混沌とした世界に境界線をつけるために
あるんだな」

すごく驚いて、すごく考えた。
先生がいうには、机や椅子に「机」「椅子」といった名前があるから、
それはそれとして認識できるわけで、名前がなかったとしたら、
それ以前に言葉がなかったとしたら、それはただ「なにか」でしか
なく、区別はないという。
それはのっぺらとした空間。(空間という言葉すらないのだから
ただただほんとになにか・・・だな)

だとすると言葉のないこと、それはひどく怖いな。
ひとは認識することで安心するから。
「これはなに?」
「はっぱだよ」
それで「はっぱ」だって認識する。安心する。

でも、同時に思ったの。
あんぱんをはじめてたべたとする。
お母さんと一緒にたべて、お母さんがこういう。
「あまいね」
アンパンを食べて甘いね、といわれたことによって、
この私の感じている感覚は「甘い」というんだ。
だから同じように感じたものをこれから「甘い」という言葉でいいあらわそう。
・・・これってほんとに「同じ感覚」を味わってるんだろうか。
同じ糖度の同じ食品を同じように口にしているから同じに決まっている。
でも、ほんとに?同じ糖度を舌にのせれば同じ感覚が得られるって?
じゃあなんで「あんぱん」好きなヒトと嫌いなヒトがいるんだろう。

もし、はじめて唐辛子を食べて、そのとき「甘いね」と教えたら?
そのヒトには唐辛子は「甘いもの」だ。
自分の感じた感覚を「ことば」であらわすことによって安心はするだろう。
自分が感じたものを伝えたい。「あんぱんはあまい」って。
それが共通認識のある「記号」であることによって相手に自分の感じている何かに近いものを伝えることはできるだろう。
だから、安心できる。
でも。
それは100%では決してない。

自分が感じている感覚を伝えることの難しさ。
これは多分私たちの永遠の課題なんだろうなぁ。

私の大好きなエッセイストが本でこんなようなことを書いていたの。

『朝起きるともやもやする。それがなんなのか言葉にしたいが
なんと表現したらいいのかわからない。・・・その内時間がたって
「まぁいいや」。そしてそのもやもやは消えていく。
今はそれがなんというのか言葉を知っている。「お父さん、今朝は
なんだか憂鬱でね」・・・。当てはまる言葉があることによって
その感覚を認識・自覚してしまう。』

言葉があることによって、相手に伝えることはできるけど、
かえってその言葉によって否が応でもはっきりと認識してしまい、
「その」感覚にどっぷり浸ってしまうんだなぁ。と思った。
それが「プラス」の感覚であれば、もう思う存分堪能したいけど、
「マイナス」の感覚だとしたら・・・。
そんな言葉知らなければよかった、って思うこともあるかも。

更にいうのなら、同じ言葉であるのに(記号であるのに)状況・ニュアンス・環境なんかで全く異なる意味になってしまうこともある。
(箸・箸ではなく、「ばか」という発言に時には「憎しみ」が時には「愛情」がこめられていることがある・・・ような違いです)

ここまで来るともはや「ことば」だけでは手におえない。
どうしたらいいんだろう?

・・・・・そんな取り止めのないことを時々一生懸命考えるのでした。
うーん・・・やっぱり変かしら。